【確信】

昼過ぎだったと思う。受験会場を後にしながら私は高校の合唱部の先生と電話をしていた。
「先生!おれ絶対合格したよ!間違いない!3月の演奏会の練習に今から参加できるよ!」
11月に終わった部活の後の2ヶ月間、必死に毎日18時間勉強を続けていた。おかげで大学に入ってからも最初の1年か2年は夢で何度かもう一度受験勉強や試験を受けている夢を見た。朝起きて気づく、もうあんな受験勉強はしたくないと思いながら目が覚めていた。

【関東!?千葉!?埼玉!?横浜!?】

大学を選んだ基準ははっきし言って何もなかった。ただひたすら親元を離れたい、金沢での大学生活4年間は過ごしたくないという、一種の嫌悪感と、関東に行きたいということと一人暮らしをしてみたいというあこがれだけだった。兄が進んだ関西には進みたくない。だから関東の大学だ、私立は高いから国立だ、そんな選択だった。

受験や進学も何も考えていなかった、ギターをやっていた私は専門学校に進んでみたかった。よく授業を抜け出し、スタジオにバンドの練習をしにいく、先生が親に連絡したり、自宅にギターを取りに帰る時に親に見つかって怒られる。そんな日が何日もあった。ギターを弾くのが楽しくて仕方ない。そんな進路を考えていたが、親には反対されとりあえず4年間遊びに行ってみろと説得された。

国立・関東、そうやって大学の情報誌を見ながら学部の名前を見てもどこの学部が何の勉強しているのかもさっぱりわからなかった。面倒な計算ばっかりしてる経済なんて、性格に合わないって思っていた高校3年生の自分。今の進路に進む自分なんて想像できなかったはずだ。そんな中見つけた埼玉大学、教養学部。埼玉大学、なんか他の人が受けなさそうな感じがいい、偏差値もそこまで悪くない、教養学部、よくわからないけど他の学校にはない学部だ受けてみよう、自分にも親にも勢いで言い聞かせていた気がする。

これに対して担任の先生はもちろん反対した。いかに進学校といえど当時学年400人中300番台に位置していた学生のたわごとに聞こえたのだろう。しかし私自身は妙に自分なら絶対できるという自信とそこまで無理だと言う先生を実際に自分が証明することで納得させてやるという反骨精神もあった。それだけでなく受験に失敗した時の私の進路は親の経営する新聞販売店での就職だった。しかもその販売店は根上という、その時住んでいた金沢よりもかなり田舎の土地にある店舗だった。もちろん知り合いなんかもいるはずがない。浪人は許されていなかった。受験に失敗してしまった人生が文字通り大きく変わってしまうものすごいプレッシャーにおされながら私は必死に受験勉強に取り組んだ。

雪が降る中、父親がセンター試験が終わった後の私を迎えに来る。翌日には新聞と照らし合わせながら自己採点をしていくわけだが自分でも驚くほどうまく行っている。嬉しくて手が震えながら採点していた。そうした時に私は2つのことを悩むようになった。1つ目は勉強浪人をしてもっとランクの高いところを狙いたいというものだった。2ヶ月という期間での自分の異常なほどの伸び、もう一年勉強しないでこのまま受験してしまうのがもったいないと思ってしまった。もちろん親は反対した。浪人の先輩の両親からのアドバイスは浪人は思っているほど勉強に集中できない、成績はそんなに伸びないと言っていた。私は人がそうだったからと言って自分がそうなるなんて考えはつまらないと思っていたし、そもそも当たることではないと思っていたが浪人の先輩たちの助言を判断にした。もう一つの悩みは自分の志望校のランクを上げるかどうするかということだった。人間うまくいってしまえば欲が出てきてしまう。どうしようか悩み始めた。しかし、もともと2次試験のことも考慮しながら受けるつもりだった志望校だったことからも変更せずに受験することにした。

この頃、比較的1次試験で稼いでいて2次の受験科目も一教科だった私は同じように高校受験だった弟の受験勉強も自分の勉強と同時並行で見るようになる。兄らしい振る舞いをしてこなかった私を弟が兄と思ってくれるようになったのもこのころからだ。


【スプリングフェスティバルって何だ!?】

マンスリーレオパレス。敷金・礼金なし。水道代、電気代タダ。家具が最初からついていて引越しに便利。そんな言葉にひかれて最初に住んだ住居だった。この選択が間違っていたことに気づくの一年経ってからのことである。
アパートに着いたのは22時過ぎごろだったと思う。母親といっしょにタクシーに乗って大宮駅からやってきた。受験以来久しぶりにやってきた、夜のタクシーの窓から見える道はとても不安に感じるものだった。

アパートの鍵を開けて、部屋に入ると高い天井が僕の目の前に飛び込んできたと同時にここから初めての一人暮らしが始まるんだという気持ちが胸いっぱいに広がった。この時の言葉だけでは表現できなきこの感覚はきっと忘れることはないし、きっともう一度味わうことはできないものだろう。深夜に荷物を届ける宅配便が届き、寝床の確保と荷物の整理を母親と一緒に行う。とりあえず寝れるようにしなくては。ようやく寝床に入ったのは2時過ぎだったと思う。金沢からの移動、荷物の整理、体はくたくたに疲れていたはずだがきっと私はわくわくして眠れなかったはずだ。


朝、目覚めると母親が大学を見てくると言う。息子がこれから4年間通う大学の写真を撮って父親に持って帰るというのだ。これから毎日通うことになる私としては午後までゆっくり寝させてもらうことにした。母親が午後になってカメラを持ちながら帰ってきた。「学校にたくさん人がいて列になっていたけど何なんだろうねと言っていた。」私は何のことを言っているかわからなかったがとにかく今日中に荷物を片付けなければならない。ようやく荷物を片付け、この日は母親といっしょに焼肉を食べに行った。感想はマズかった。関東の食事は高い割りにあんまり美味しくないと聞いていたが、金沢の食事があらためて美味しいものだと気づいた瞬間であった。


朝自分一人で目覚めて、スーツに着替えて出発する。そんなことでさえもドキドキしてしまう一人暮らしだ。入学式のため大宮に向かう。会場に着くと何人かで集まって仲良さそうに話している人が多かった。思った以上に地元の埼玉から進学する学生が多くてもともと仲が良い人たちが出席しているのかな。そんな風に私は思っていた。この日昼食は学生たちが各自好きなところに昼食を食べに行って午後からまた戻ってくる形式だった。私は一人で駅ビルの中にある天ぷらやで豪華に食べていた。デザートはアイスクリーム天ぷらだ。予想していたものとは何か違った味だった。明日からはいっしょに昼食を食べる友人を作ろう。キャンパスのベンチに座りながら食べるのもいい学食で食事するのもいいな。そんなことを考えながら昼食を終えて会場に戻った。


【寂しい昼食】

初めて学校に登校する日、そして初めてクラスの生徒が顔を合わせる共通の英語の授業だ。朝一番の8時40分の授業にめいっぱいオシャレをしていこうと私は念入りに服を選んでいた。かといって、あまり時間をかけ過ぎてもいられない。輪っかがすでにできてしまっていたら入りにくくなってしまう。私は学校に向かった。

教室に着くと、すでに何人かの生徒が来ていた。しかし、中学や高校で仲のよかったような人とはちょっと違った。頭の中で想像していた国公立大学の学生のイメージそのものだった。あまりしゃべったのかどうかも覚えていない。その時一人の学生が教室に入ってきた。一目見たときに私は「コイツだ!」と感じしゃべりかけたのを覚えている。話したことといえば、名前・出身地・一人暮らしかどうか・携帯持ってるだとか程度のことしかしゃべれなかった気がする。「ミツヒロっていうんだ。うちの父親といっしょだよ。」そんなよくわからないことさえ喋っていた。彼とは埼玉大学で4年間一番仲良くなり、一番付き合っていくことになる。
彼と話しているとまた新しい学生がやってきて彼と仲良さそうにしゃべっている。宇都宮出身の彼がすでに知り合いがいることに私は驚いていた。

どうやらクラスの共通の授業は週2回の英語と週一回体育だけらしい。そうして授業が終わった後に私の知らない言葉が会話の中に入っていた。「スプリングフェスタでいっしょなグループだったから仲が良いんだ」。スプリングフェスタって!?何のことを言っているのかよくわからなかった。共通の授業が終わればそれぞれ別のクラスに皆向かう。私は移動しながら授業でいっしょだった学生と必死に携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。

そして昼食の時間になる。キャンパスのベンチや学食での昼食はどこかに行ってしまっていた。初めての空間である大学の広場や学食で一人でご飯を食べることがとても恥ずかしいようなことに思っていた。この日一体何を食べていたのか覚えていない。きっとどこかのコンビニでパンでも買って、一人で大学以外のどこかで食べてきて、また大学に戻ってきたのだろう。何で一人で食べているのか私にはさっぱりわからなかった。

初めての大学の授業も終わり、家に帰った。とりあえず、今日交換した携帯のアドレスにメールを送らないと、でも顔が思い出せない。まぁ、それでもいいから送っておこう。


想像していたキャンパスでの新しい友達との昼食は一日目にはなかった。明日からの昼食もどうしようか、そんなことを考えながら私の大学生活が始まるのだった。