【近況報告】

作者です。

実は、更新日を宣言しているにも関わらず交信していなくて申し訳ありません。

引越しと卒論がかなりの
最終フェーズに入っていて、いっそのことブログをやめてしまおうかと思っていたんですが

何人かの方からメールをもらったので、予定の調整がつく3月になったらまた始めます。

やべ~、ジャンプの休載みたいだ…

まだまだ描くネタはいっぱいありますので

シリーズ【僕の大学生活③】(次回は2/18)

【怪しいサークル勧誘】

私はとても急いでいた。3月の中ごろだったと思う。合唱部の演奏会も間近に迫った高校生活の残り最後の時間、一分一秒でも長く合唱部活のために時間を使いたかった。

そんな中、金沢からの新幹線での片道4時間の往復の間はずっとすぐに帰りたいと思っていた。合格した埼玉大学の入学手続きを済ませねばならなかったのだ。入学手続きや大学生協の申し込み、奨学金や授業料振込みのための銀行口座の開設、本人が直接大学にいって手続きをせねばならない。

大学側が用意した、手続きの受け付けに長い行列ができている。周りはもちろん知らない人だらけだ。母親といっしょに並んでいる男の子を見ると勝手に「自分一人では来れないのかな」なんて、自分のほうが偉いなんて思ってたりしていた。実家にいれば、ごはんも出てくる、洗濯もしてある、掃除や風呂の準備も毎日自分でするわけではない私にとっては各種手続きは勝手がよくわからなかった。銀行員の人が勝手に話を進めて、判子を押してくださいと指示する。銀行口座を開設して振り込んでもほんとうにできているんろうか、騙されてるんじゃないかとか思ってしまう。産まれてからほとんど金沢にしか住んでいなかった私にとっては関東はそういうものだった。

きっと私はその時キョロキョロでもしていたのだろう。慣れない手続きの連続、地形のわからないキャンパス、周りには大量の自分と同じような高校生たち。歩いていると声をかけられた。

「あのう、新入生ですか?埼玉大学のサークルの説明をしたいんですけど」

この言葉から私は、サークルというものが一体何で、埼玉大学のサークルにどんなものがあるのかサークル全体の説明をしてくれるものだと期待してしまった。偶然にも連れて行かれたのはそれから4年間通うことになる教養学部のロビーだった。

予想していたものと全く違う事実が飛びこんできた。彼らがとつぜん喋り出したのはサークルの説明なんかではなかった。星の王子さまに植物が出てきて、動けない植物は幸せだと言っているんですどうしてかわかりますか?こんなことをいきなり聞いてくる。そんなの中学生でもわかるだろと心の中で私は叫んでいる。あと知っていますか、儲けるという字は、信じられる者って書くんですよ。こういうことを私たちはみんなで考えて話し合っていきたいんですよとか言っている。年上の人だし、初対面だったから少しでも話を聞いてあげようかと思ったが、頭の中では早く金沢に帰ることでいっぱいだった。合唱部にいれば、曲や詞の解釈もたくさんやる。早く話しが終わるのを願いながら明るく元気にうなずいている私がいる。話が終わると私は早々とバス亭に向かい帰路に着いていた。たしか母親に携帯電話で話しをしながら頭の悪い人に捕まってしまって時間も気持ちも損したみたいなことを言っていたよう気がする。



週に1度ある、英語の授業の時に知り合った友達が授業終わった後に言っている。スププリングフェスティバルっていうのは新入生が仲良くなるためのイベントで4月の頭に大学の中をグループで探検したり、ゲームしていくイベントなんだ。入学手続きの日に、案内の紙をもらっているはずだよ。と言っている。

この時、何が起こっていたのか私はすべて理解した。私が怪しいサークルに捕まっていた時、他の学生はみんな大学で仲良くなる友達を手に入れるスプレイングフェスタの説明を受けていたのだ。引越しのために埼玉にやってきて、朝疲れて寝ていた私に話した母親が大学で見たものがスプリングフェスタのイベントだったのだ。私が一人で入学式の日に駅ビルで天ぷらを食べていた時に、スプリングフェスタに参加していた学生たちはきっといっしょに昼ご飯を食べていたのだろう。どうにも昼食自由なのがおかしいと思っていた。その事実を理解した私はあの怪しい二人組のことをきっと忘れない。

見知らぬ他人のせいで自分の大学生活に関わるチャンスがつぶされてしまう。やりばのない怒りだった。


【授業登録】

大学も2週間ほど過ぎれば、いよいよ自分の取る講義を登録しなければいけなくなる。親や兄弟から言われていたのはとりあえず1、2年のうちにたくさん取っておいて3,4年の間を楽にしないと大変になるぞ。そんな知識しかなかった。何をどれだけ登録すればいいのかもわからない。

どうやら、履修案内もよく読んでみると教養学部(教育学部とは異なる)というのは教員免許も取れるみたいだ。教員免許も取れるもんならとりあえず取っておきたい。

小中高や中3の時の塾の時と面白い先生と会えた時は自然と面白かったなぁ、小学校や中学校の時も先生という職業にあこがれていた、将来の職業は変化のある人との出会いがあるところがいいと考えていた。同じようなところで同じようなことを黙々と続けていく、そんなイメージが浮かぶような職業にだけはつきたくないという恐れのようなものがあったし、出会った人の人生の印象に自分がちゃんと残る職業につきたかった。中学生や高校生のころ自分の持っていた情報では先生という職業はとても条件が合致していた。高校のときは合唱部の先生の影響で音楽の先生になれるような進路も考えていた時期もあった。もちろん担任からの反対の声も大きかったが。

とにかく、私の授業の登録のしかたは決まっていた。ほとんど誰も知らないような大学での最初の生活はムチャクチャ寂しかった。特に昼休みのご飯の時間だ。食べる人がいない、学校の外に出かけ一人で入りやすいラーメン屋や牛丼屋で食べる、コンビニで一人でパンを買って公園かどこかで食べる。大学生活がほんとうに予想していたものと違っていたのだ。一人暮しで知り合いがいない状況がこんなに寂しいものだと思っていなかたし、こんな状態に自分がなるになるなんて考えてなかった。

とにかく同じ学年の学生ととことん接点がなかったのである。私は、クラスのいっしょな友達が取る授業をとりあえず登録しまくった。興味のないものが後になってからほとんどだった。そんなことよりもその時の私にはとても重要なことだったのだ。

どんな授業を登録しているかさりげなく聞いたり、調べていってたりして私の時間割は少しづつ完成していったのだ。授業が増えれば、とりあえず接点が増える。やはりお互い初対面だ仲良くはなりやすい。それでも週に2日ほどは知っている人と合わない日があった。しかし、前よりは随分ましになっていた。

【サークル入る 同居人との出会い】

とうとう、サークル勧誘の季節になってきた。大学に入ったら絶対にバンドサークルに入ろうと決めていた。高校のころそこそこやっていたから、自信はある。結果的に2つのバンドサークルに入ることにした。簡単に言うと、1つはうまめのところAで、もう一つは全体的にはあまりうまくないところBだった。文化祭典という音楽サークルが集まって、新入生にライブをするイベントを見ながら、同じギターをやっていた教養の知り合いといっしょに偉そうになって、やれあのギターはうまい、今のいまいちだったよね、なんて話しながら結局その2つに決めたのだった。

新入生歓迎の飲み会にももちろん参加した。高校生活の時にも、お酒を飲んだことはもちろんある。だけど、やっぱり大学生活に入ってからのお酒は何か違う。うおぉー大学生になったぞー!酔っ払いながらそんな気分を味わっていた。ただ単に大学生になってお酒を飲んでいるそんなこと自体に喜んでいたのだろう。毎週金曜日に片方のサークルAはミーティングが終わってから飲み会をお酒を買ってきて学校の校内で開いていた。きっと私は毎回参加していたのだと思うとにかく楽しかった。門限もなく、好きな時間まで好きなようにお酒を飲む。そんなことが楽しいのだ。



現在引越しする直前の私の部屋は、ワンルームの大きさだがロフトもついている。今、引越すまであと残りわずかの期間だが同居人がいて彼との共同生活を過ごしている。(彼がうちに転がり込んでくるようになった経緯はまたブログの中で紹介していきたいと思う)

ちょうど彼と出会ったのも4年前で、サークルBでの出会いだった。その時のバンドのきめ方は、新入生がやりたいバンドを言ってそこに新入生が集まってバンドを組むという形だった。

私は、当時名前だけしか知らなかった「くるり」というバンドをやりたいとその場で言った。そこに4年生二人と、その同居人が集まってバンドを組むことになった。今思い出しても、すげ~おもしろいバンドだったと思う。同居人の第一印象はあまりよくなかったのは覚えてる。何だコイツみたいのだった。初めてスタジオ入った時にも、これでボーカル大丈夫なのかな~とか思っていたりもしていた。

彼はほんとに歌がうまくなったと思うし、4年間の中でいろいろなことやった。バンドもいっぱいやったし、アメリカにも一緒にいったし、カラオケもよく行くわ、同居生活もするわ。彼は休学してたので私よりも卒業が1年遅いのだがこれからもとても付き合っていきたい人物の一人だ。

大学に入って入ったバンドサークル、やっぱり最初のころは良くも悪くもサークル漬けだった。
そんな大学生活がスタートしていくのだった。

シリーズ【僕の大学生活②】(次回は2/15)

【プレ大学生活~僕の合唱部~】

私は埼玉大学の入試を終えてからの一ヶ月半の残りの高校生活、所属していた合唱部の3月に開かれる演奏会の練習に集中していた。私が演奏会に夢中になっていたのには理由がある。私たちの高校の合唱部は、全国の合唱団体の中では有名だったが10数年前を区切りにそれまで進んでいた全国大会に進むことはできていなかった。(ちなみに、県大会→中部地方大会→全国大会のステップ)それが私たちの学年が入学した1年の時には、10数年ぶりに全国大会に出場することができ、その時の結果は銅賞だった。(金賞5校、銀賞6校、銅賞6校のような表彰のされ方である)。2年の時も全国大会に出場できたがその時の結果も銅賞だった。しかし私自身2年の途中までは合唱部にはあまり本腰を入れてなかった。2つ学年の先輩が2年の10月に亡くなるまで。

その時のことは今でも覚えている。いつものように部室である音楽室で練習を続けていた。パートごとに分かれてベースだった私はパートの練習時間だった。その時間はベースのパートを顧問の先生が見てくれる時間だった。先生が見る練習時間が終わる時に、その時先生が突然、私たち生徒に向けて言った。「おまえたちの先輩の中嶋が亡くなったわ。」あまりに先生が冷静に言ったので、何を言っているのかよくわからなかった。先生は何か言葉を続けている。だけど頭には一言も入ってこない。ずっとずっと先生が何を言っているのかよくわからなかった。最後に先生が一言言った。「中嶋のためにも全国大会をがんばろう」。

先生がパートを見てくれる時間の次は、その指摘されたところを直すための学生だけのパートの時間だった。部室の音楽室から場所を移してベースのパートは練習する。だが、私は違うところに歩いていて、音楽室の中に3つ着いていた防音の練習室に一人で入っていた。気づいたら泣き出していた。声を上げての号泣だった。その先輩に特別にこんなことをしてもらった、あんなことをしてもらった、そんな具体的な事柄は思い浮かばなかったがお世話になったという気持ちが後から後から思い浮かんでくる。なんで自分がこんなに泣いているのか自分でも不思議だった。それほどお世話になったことを自分の心の中でわかってなかったんだ。唯一の3年男子であったパートリーダーもその時間は、練習をほっぽって校舎をあてどなく歩いていた。二人も抜けた中、同じ2年の生徒がその時間のパート練習を仕切っていたことは今でも本当に偉いと思う。

そんな出来事があっての2年生の時の全国大会銅賞だった。悔しくて仕方なかった。結果が銅賞だったことで、あまり本気で練習していなかった自分に腹が立った。最後の年は絶対金賞を獲ろうと決意した。それまで部活は普通に参加していがあまりマジメに取り組んでいるほうではなかった、技術も飛びぬけているわけでもない、自分が偉そうなことを言っても効果は何もない、むしろ逆効果だと思った。私は一つのことだけを心の中で決めて実行することにした。これからの練習誰よりも早く来て、誰よりも一番遅く帰り、誰が見ても80人近い合唱部の中で後藤が一番練習しているという姿をまず実証するということである。それだけを実践した。ひたすら歌い続けた。学校の全校生徒行事で演劇鑑賞が終わったあとも誰もいない学校に戻り一人音楽室で勉強した。かなり遠いところにある顧問の先生の家にも、夏休みの中でたまにしかない部活の休日をさらに練習を個人的に見てもらいに行った。自分は合唱の技術はどうかわからなかったが、合唱部のムードメーカーではあったことはわかっていた。マジメな方向でのムードではないムード作っていたが、その自分の役割を自分で一番理解しながら自分次第によってはマジメな方向へのムードを作れるはずだと思っていた。部員みんなの目標を一つのものに向けることが重要であると考えていたし、自分にはそれができると認識していたしその役割を果たすことができるための下準備をひたすら地道に毎日続けていた。3年生の時には誰よりもがんばる自分が態度で雰囲気を作り上げていくように努力した。本当に部員一人ひとりの想いや練習が積み重なり、そうして最終的には私たちの学年の代で金沢二水高校合唱部は金賞の中でもさらに特別な全国大会3位に入賞することができるということができた。1年間本当に一つのことにひたすらがんばったものに結果がついてきた時は最高の瞬間だった。

受賞したその日はもう一度宿に帰って、次の日は一日観光をしてからの帰路だった。帰りのバスは最高の時間だ。私たちは、3年間で今まで歌った曲の楽譜を全部持ってきている。3年生はバスの席で同じ場所に固まって福島の郡山から帰り道の間中、歌っているのだ、これは毎年恒例の行事なのだ。みんな3年間を思い出しながら、全員が楽しそうに笑いながら歌っている。しゃべるよりも歌う。合唱部ならではの時間の使い方だ。全員で歌うのもある、男声だけのものもある。女声だけのものもある。歌っても歌っても曲はある。そして高速の最後の休憩所に寄る。今までの休憩と違って全員が駐車場だけど、集まって輪っかになる。最後に全員が歌える校歌とは別の合唱部の歌を全員で歌うのだ。明日から、私たち3年生はもう部室の音楽室には足を運ばない。これが本当に最後なのだ。1年生も2年生も3年生もみんな泣いている。私も泣きながら歌っているので声が出ない。それでも歌いたい、そんな時間だ。歌が終わると、みんなもうぐしゃぐしゃになっている。高校に入るまで、入ったとしても同じ部活に入らなかったら会わない80人が合唱部を通して出会って共にがんばってきたんだ。

高速から普通の道路に降りて、段々見慣れた風景や道路が目に入ってくる。あと少しでバスも到着してしまう。普段酔ってしまうから長く乗っていたくないバスにその日ばかりは長く乗っていたいと思ってしまう。信号無視してしまう信号でさえも早く変わらないでいて欲しいと思ってしまう。そうして夜遅く学校に到着すると、学校に大きく「全国大会金賞」の垂れ幕がかかっていた。

一年の時には、合唱部とバンドのギターとの両立が難しくなって、どっちも全然中途半端になっていた状況に嫌気がさして先生に部活をやめたいと申し出たことがある。はじめはかっこつけながら「もうやめる。」と言っていただけだが、先生もそれに対して引き下がらない。だんだん感情的になって気づいたら自分がなきじゃくりながら「もう無理なんです」と言っている。両方がんばっている自分なのに両方うまくいってない状態から逃げ出したかった。先生はあくまでも引き下がらない。私の手をとって言葉を言う。すごい強引でむちゃくちゃなことを言っていたが今でも心の中に残っている。同じ学年の部員の男5人は、私と先生のその長いやりとりが終わるのをずっと待っててくれた。それで、音楽室の中にある狭い練習室に入って6人で輪を作って話し合う。みんな思い思いをしゃべる、私がやめるということで泣き出すやつもいた。その時に「自分が学校をやめると言っても泣き出すクラスメートはきっといないが、自分がやめると言った時に泣いてくれるやつらがいるんだ」と思った。やめないと決心した。

もちろん、ギターに費やす時間は減った。高校3年間の間、それでもいくつもライブや文化祭にも出ていたが意識は変わったと思う。中学の3年のころ、両親や兄に受験勉強に集中するために我慢させられていて思いっきり弾けるようになったのも高校からだった。しかし、自分にとっての大事なものがそのことがあってから合唱部になった。もともと中学の時にやっていたハンドボール部がしたくて、ハンドボール部がある高校に進学したが、両親の新聞販売店の手伝いのバイトと、バンド活動と、運動部のかけもちはきついと思っていた時にかわいい女の人に声をかけられてついて行ったのが合唱部だった。その時たまたまギターがうまい先輩がいた、練習時間も5時までだと言う。女の子も多いし。これならバイトとバンドとのかけもちにも適している。中学時代の同じ部活の先輩に入りますとすでに言ってしまった後だったので、授業中一日中悩んでいたが入部することを決定した部活だった。

そして、合唱部始まって53年間最大の快挙は一つの出来事を私たちに運んできた。「演奏会」である。今まで2回しか開かれなかった演奏会が何十年かぶりに再会するというのだ。校長の力強いプッシュがあったらしい。私たち部員にとってはそんなことはどうでもいい。もう一度このメンバーで歌えるチャンスがあるのだ。それだけで十分だった。コンサートの日付は3月の終わり、3年生はみんなギリギリまで自分の進路と闘っている。練習時間は3年生にすればほとんどない。一日でも早く自分たちの戦いには決着をつけて練習したい。そんな想いから試験を受けた後の私は3年生の部員の誰よりも早く演奏会の練習に合流するのだった。

それが私の大学生になる前の高校生活の最後の時間の最高の使い方だったのである。

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